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非指定文化財

非指定文化財

国立中央博物館所蔵品

Earthen Bottle img

土器瓶(朝鮮時代) 1966年に九里市仁倉洞で発見(発見者:シン・マンオク)、国立中央博物館所蔵 白磁瓶(朝鮮時代) 1966年九里市仁倉洞で発見(発見者:シン・マンオク)、国立中央博物館所蔵 石製燭台 1974年九里市仁倉洞で発見(発見者:コ・グァンス)、国立中央博物館所蔵

高句麗堡塁城

Boru Fortress of Goguryeo img

チョンリプ会館付近の高句麗遺跡採集土器片

紅蓮峰高句麗遺跡Ⅰ

Hongryeonbong img

峨嵯山遺跡地入り口の南側にある丘陵頂上部にある。二か所の高句麗遺跡があるが、全体的に比較的良く残されている。

峨嵯山高句麗遺跡Ⅱ

Achasan img

大成庵の後ろの海抜276m地点の小さな頂上部にある。石築施設物が比較的良好に残っている。

龍馬山古墳

Yongmasan Ancient Tomb img

峨嵯山一帯は太白山脈の鉄嶺付近から分かれて北北東-南南西方向に伸びた広州山脈の西側の端に位置する。風水地理的に峨嵯山は北岳・冠岳・桂陽・紺岳山とともに北岳山麓を明堂吉地にしている山で、南行山と呼ばれもした。 ソウル市広津区・中浪区と九里市の境に位置するこの地域は、峨嵯山・龍馬山・烽火山などの山地と中浪川・王宿川を挟む地形で、墓の立地として優れている。 またこの地域は三国が古代国家として成長していく中で漢江流域をめぐって熾烈な接戦を繰り広げた所で、最初は百済が支配していたが、高句麗の占領を経て、最終的には新羅の支配地域となった所だ。したがってこの地域で三国時代の三国すべての墓が発見されるものと考えられる。 現在峨嵯山地域で破壊されたものとして確認された古墳だけでも70基以上で、破壊されていないものを含めると150基をはるかに超える古墳が確認される。古墳はほとんど石郭墓や石室墓で、風化岩盤地帯の地面を掘り20~30㎝ほどの大きさにした石を7~8段積んで内壁を作り地面には粘土を敷きその上に厚さ5㎝ほどの平たい石を敷いて幅60㎝の死者を載せる台を作った。 規模はほぼ長さ2.4m、幅1.5m、深さ1.1メートル内外で、方向は南北向が主である。古墳から直接出土した遺物はないが、石室墓周辺で多くの土器片が採集されており、各時代の特徴を把握するのにとても役立っている。

峨嵯山古墳Ⅰ

Achasan img

峨嵯山の主陵線の東にある小さな峰の頂上部にある。高句麗遺跡と見られるが、新羅がここを破壊して古墳を築造したものと見られる。

峨嵯山古墳Ⅱ

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ウミネマウル西側の岩山頂上部海抜125m地点にある横穴式石石棺墳である。他の場所ではなかなか見られない特異な形の墓である。

ボルマル橋踏み

Beolmal Bridge img

土坪洞のボルマル橋踏みは漢江の洪水による被害を防ぐための厄払いの性格を持つ民俗遊戯で、漢江の近くにある農村地域の特性を反映している。土坪洞のボルマルと石島を結ぶ木橋で陰暦1月15日前後に行われたこの民俗ノリは1916年頃まで行われていたとされる。橋踏みは高麗時代から始まったとされ、この日に端を踏むと一年間厄を免れるとされ、老若男女や貴賎を問わず誰もが夜を徹して橋を踏んで歩いた。 土坪洞ボルマル周辺は漢江流域に位置し、夏になるといつも川があふれて洪水の被害を受けた。80余年の間中断されていたもを去る1993年に人間文化財ハン・ユソン(故)とその孫のハン・チョルスが再演し、現在は九里文化院が保存している。マダンノリ形式のボルマル橋踏みは第1マダンのキルノルム・ノンギ拝礼、第2マダン地神踏み・ウムルプリ、第3マダンの橋踏み・橋解き、第4マダン京畿民謡ソンソリ、第5マダンの石戦および和合の場から構成されている。

テッキョノリ

Daekgeyo Play img

陰暦の1月1日から15日の間に日を選んで集落の人々が行っていた遊びで、「日を選ぶのに1日、準備するのに1日、遊ぶのに1日、終わるのに1日」かかる遊びだった。 部落の広場に高い舞台を作ってその上で三絃六角の歌や踊りを踊り、舞台の下では2~3階の高さに次々と肩車をした。このように肩車をすることを「テッキョ踊り」という。 男性が女装して踊りを踊り、鼓を打ち笛を吹いて奏でた。 片側に天幕を張り、近隣のマウルの人が見物に来たならば天幕の下で酒の接待もした。 ナムサダンペノリに似ているが、集落の人々が直接参加して行うというのが異なる点だ。ドンチャンマウルは広く、踊りや歌のうまい閑良が多く住んでいたことからナムサダンの一座がよく来て演じた。