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有形文化財

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有形文化財

東九陵

東九陵

- 指定番号: 国家指定史跡第193号

- 所在地: 197 Donggurungro 、九里市

- Closed on Monday

ここは朝鮮王朝を建てた太祖李成桂が1408年(太宗8)に崩御した後に、太宗の命令で坡州、高陽などで陵に適した場所を探していた際に、当時の検校参賛議政府事を勤めていた金仁貴が推薦し、領議政府事河崙が陵地として決定した場所だ。東九陵の造成は朝鮮王朝全期にわたって行われたが、東九陵と呼ばれるようになったのは追尊王翼宗の陵である綏陵が9番目で、造成されていた1855年(哲宗6)以後のことで、その前には東五陵、東七陵と呼ばれていた。 東九陵は太祖李成桂の陵である健元陵をはじめ、顕陵(5代文宗とその妃の顕徳王后)、穆陵(14代宣祖とその妃の継妃仁穆王后)、徽陵(16代仁祖の継妃の荘烈王后)、崇陵(18代顕宗とその妃の明聖王后 )元陵(21代英祖とその継妃の貞順王后)、綏陵(23代純祖の世継ぎである追尊王翼宗とその妃神貞王后)、景陵(24代憲宗とその妃の孝顕王后、継妃の孝定王后)など、合わせて9つの陵が造成されている。

明嬪墓

明嬪墓

- 指定番号: 国家指定史跡第364号

- 所在地:九里市峨川洞山14番地

1991年10月25日に史跡として指定された明嬪墓は朝鮮王朝第3代王太宗の側室である明嬪金氏の墓である。明嬪(?-1479)は知敦寧府事安靖公金九徳の娘で本貫は安東である。 太宗11年(1141)11月に明嬪として冊封され、成宗10年(1479)6月5日に死去するまで太宗から成宗に至る7代にわたって内命婦の地位を守ったが太宗との間に世子はなかった。一名峨川洞ドンサゴルの丘陵に2千5百余坪の規模で造営され、墓域の石物は標石1基、文人石1双床石(魂遊石)香炉石などがある。

羅萬甲先生神道碑

羅萬甲先生神道碑

- 指定番号: 京畿道有形文化財第126号

- 建立年代:1658年(孝宗9年)

- 指定日:1985年6月28日

- 所在地:京畿道九里市四老洞山163番地

神道碑とは従2品以上の官員の墓の近くの道端に立てる碑石で、正3品堂上官以上の官吏を務めた人が擇述するのが礼儀である。羅萬甲(1592-1642)先生の本貫は安定で、字は夢賚、号は毆浦で、光海君5年(1613)に司馬試に主席で合格して成均館儒生となったが、仁穆大妃の西宮幽閉事件により都落ちしてひたすら学問に熱中し、1623年に仁祖反正により純陵参奉に陪従された。その年に謁聖文科に志願し、丙科に及第した。その後弘文館校理を務めていた時に党争に巻き込まれ、江東縣監に左遷された。 1627(仁祖5年) 丁卯胡乱が起きた際に江華道で仁祖を守った。還都後に兵曹正郞、弘文館 修撰、司憲部持平などを経て1635年に刑曹参議として王を守護した。その後兵曹参議となり罪もなく南海に流刑となった。1639年に栄州で死去した後に左議政の官位が贈られた。著書として丙子録、毆浦がある。神道碑の文は清陰金尚憲が作り、追記は同春堂宋浚吉が書き、孫の良佐が作った。この他にも文谷金壽恒が作った誌名と尤庵宋時烈が文章を書いた墓表がある。1985年6月28日に京畿道有形文化財に指定された。

峨嵯山一帯堡塁群

峨嵯山一帯堡塁群

- 指定番号: 国家指定史跡第455号

1) 峨嵯山の歴史的背景: 峨嵯山はソウル広津区と九里市の境界となっている漢江流域にある山で、それほど高くはないが地形的にとても重要な所だ。漢江流域は地理的に戦力的要衝であると同時に肥沃な平野と漢江を通じて西海への交通が良いことから先史時代から生産と交易、政治、文化の中心地として発達してきた。特に、三国時代に入ってからはこの地域を占めることが国家の興亡を左右するほど重要な意味を持っていた。したがって三国はこの地域を占めようと角逐した。 三国の中でこの地を最初に占領したのは百済で、温祚王が定着(紀元前18年)し、公州(熊津)に遷都(475年)する時まで500余年間ここを支配した。 475年に高句麗の長寿王が百済の蓋鹵王を阿旦城(峨嵯山)の下で殺害したことで百済の漢城を陥落させ、漢江の南側まで高句麗の領土となったが、551年に新羅と百済の連合軍の攻撃により高句麗は漢江流域を失い、553年以後は新羅の領土となった。

2) 峨嵯山の歴史的意味: 峨嵯山の西側には中浪川、東側には王宿川が流れて漢江に注ぐ。 峨嵯山は龍馬峰とともに近隣で最も高い峰で、南は漢江以南の全地域と北は遠く議政府に至る道まで見渡せる有利な地形となっており、軍事的にとても重要な所だ。 峨嵯山と龍馬山一帯の堡塁をはじめとして九宜洞の 堡塁 まで、山の稜線に沿って峰の頂上を中心としていくつもの堡塁が造られた。 これらの堡塁は漢江と中浪川、王宿川を監視するために築かれたもので、特に漢江南岸の夢村土城と風納土城一帯を監視するためのものだと考えられる。堡塁というのは、軍事的目的で築いた小規模の要塞のことで、峨嵯山一帯には合わせて20の堡塁があったものと推定される。峨嵯山の高句麗遺跡は1994年に九里市と九里分文化院によってはじめて体系的な調査が行われ、地表調査によって1997年と1998年、2000年に多くの遺物が発掘され、2004年10月27日に国家指定文化財(史跡455号)に指定された。